中小企業で年収1000万のおじさんマネジメント奮闘記

国立大卒・大企業経験も資格もなし(でも学びは忘れない)。キラキラした経歴でなくても、自社で存在感を増し年収アップするコツや現場で活躍される管理職の皆さんと共有したい課題などを記したブログです。

小うるさい人たちの価値

マンションに住んで、自治会長がいつも文句を言いながらも、何とかしようと取り組んでいる。

 

ポイ捨て

ペットのフン

夜の楽器の演奏

ポスティング

 

マンションという極めて小さなコミュニティでさえ問題は常に解決しない。

 

いわんや地域、国、世界は?

 

少子化

貧困

教育

戦争

 

ペットのフンどころではない大きな問題が次々発生しては続いていく。

 

そんな事を考えながらふと思った。

 

マンションの自治会長のような愚痴を言う人は少なくても何かを問題視している。たとえその問題が解決出来なかったとしてもそれだけで価値があるんだと。たとえ愚痴を言うだけで行動に移せなかったとしてもその愚痴で自分の問題視している事を知人、友人、同僚、部下、親族に伝える事で周囲の人に問題意識を喚起したり、その問題をこれ以上大きくしないでおこうと思える契機を作っている。

 

マネジメントしていて、リーダーがいつも愚痴ばかりだと部下は呆れるかもしれないが、何も出来ないよりは愚痴でも言っていた方がまだマシではないか。部下がいつも約束を破るんだよな。片付けしないんだよな。顧客と交渉できないんだよな。そんな愚痴でも、ないよりはあったほうが部下にリーダーが問題視していることを知らせる事はできる。

 

同じフランチャイズのコンビニ見ていても、トイレやゴミ箱がいつも汚いコンビニがある。マネジメントが出来ていないと言えばそれまでだけど、マネジメントできないならせめて小うるさい店長になればいい。

 

小うるさい店長

小うるさい会長

小うるさい嫁

小うるさい上司

小うるさい知事

小うるさい大統領

 

小うるさい人は嫌われてがちだが、そういう人たちがいなくなったコミュニティや組織は問題が全て解決した理想郷では決してなく、問題視できる人がいない悲惨な世界だと思う。

 

我がマンションはなんだかんだ秩序が守られて、心地よい。

意見がコロコロ変わることは悪いこと?

先日、ちきりんさんの新書「自分の意見で生きていこう」の創刊セミナーに参加した際、とある方から「意見がコロコロ変わることは悪いことですか?」といった趣旨の質問が上がっていました。

 

意見は確かにコロコロ変わりますよね。これって、誰しも経験のある事だと思いますが、なんか「良くないこと」に感じていませんでしたか?少なくても私はそうでした。

 

ところがちきりんさんの回答は「意見がコロコロ変わる事は悪いことではない。わたしもコロコロ変わっている」と。そして意見がコロコロ変わることは悪くないけど、「振れること」は良くないともおっしゃっていました。

 

これは私にとって新しい概念でした。

 

私の理解はこんな感じでした。

コロコロ:思考の軌跡がある。

振れる:思考の軌跡がない。

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コロコロと振れるのイメージ

 

 

ちきりんさんはご著書の中で、意見に正しいも間違いもない。情報がないと意見を言えないということもない。と述べておられますが、私は意見がコロコロ変わることを悪いと感じることと、情報がないと意見が言えないことには関係性があると思いました。

 

情報は常に更新される。

情報が更新されると意見が変わることもある。

意見がコロコロ変わることは悪いことだから、その時点での意見が言えない。

 

このループに陥って、今の自分の意見をいつまでたっても言えないのではないかと。

 

いつまでたっても自分の意見がないということは、その人が他者に認識されることもないですからね。。。

 

そういえば、昔、上岡龍太郎さんが、「意見が変わることは進歩である」とかいって、

タバコを吸い続けると宣言していたのに急に辞めたり、

ラソンやゴルフを否定していたのに、ホノルルマラソンで出たりアメリカでゴルフのプロテスト受けたりしてて笑わせてくれたな。。

 

意見が変わることは進歩である!

 

点で終わらせたいことと、点を線にしたいこと。

誰かに傷つくことを言われたとして、そのことを10年間、根に持っている人がいたとする。

 

その人はそれだけショックなことを言われたのだから可哀想だし、ショックを与えた方が悪いのは確かだと思う。

 

でも、その人は、与えられたショックを本当に10年間も根に持ち続けるしかなかったのだろうか?その間に、相手と深く話しあって誤解を解いたり、謝罪させたり、自分の考えをぶつけたり、、そのような努力はできなかったのだろうか?嫌なことを早めに解消させる行動は本当になかったのか・・・

 

過去、現在、未来と時間が続く中で、嬉しこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いことは、それぞれ一つの出来事として存在し、それらは、その時点では「点」でしかない。しかし、その点がその先「線」になるかどうかはその人次第な気がする。

 

私は

辛いことは、なるべく「点」で終わらせたい。根に持つ(線にする)と辛いから。

嬉しいことや楽しことも、「点」でいい。もっと嬉しいことや楽しいことを見つけたいから。

 

でも仕事(に限らずだが)で成長したいテーマは点を線にすべきだと思っている。

一つ一つの経験(点)を機に、そのことに継続して向き合うことが、私の考える「線」のイメージ。

 

マネジメントしていて、時々残念に思うのは、点を線にしようと思わない部下が多いということ。とりわけ、そつなく仕事をこなす人に、そのようなタイプが多い。

 

最近もこんなことがあった。

ある顧客が部下Aに対して「彼はそつなくこなしているんだけど、なんだか気が利かないんだよね」。。。とAの上司である私に陰口を言った。私は迷ったが顧客の言葉をそのままAに伝えた。Aは「私は丁寧に対応しているつもりなので、正直、そのような事を言う顧客が腹立たしい」そして、「その顧客と信頼関係を結ぶための方法も正直よく分からないし、仮に結べたとしても、それって客観的にわかることなんですか??分からないなら無駄に思えます」と私に言った。

 

確かに信頼関係を結べたかどうかの評価は難しい。

また、信頼関係を結ぶというのは、例えば売り上げを上げるという成果に対する一つのプロセスでしかないので、プロセスだけで評価するわけにはいかない。でも私は上司としてAがこのような考えでこの先成果を継続して出し続けるのかが心配でならない。

 

成果を出すためのプロセスはさまざまだが、経験(点)から見えた課題に対して今より良い状態を目指してまずは行動し続ける(線にする)する人と、Aのようにブレーキがかかる人(点を線にしようとしない人)。この違いって?未来志向とか、欲が強いとか、いろんな考え方があるだろうけど、先天的な人の性質で片付けず、再現性持って変化を起こせる方法って何かあるのかな?

 

今より良い状態になりたい。でも面倒なことは嫌。ってことなんかな。

 

 

 

 

 

 

評価に不満!給与を上げてくれと相談してくる部下を会社はどう考えるか。

私が管轄する部の組織構造を変えたり、結果重視の評価に着手し約一年がすぎた。

 

この間早くも「モチベーションが上がらない」とか「私は必要とされていないのではないか」と口にするメンバーが出始め、部署替えになったり、長期休業に入ったり、離職していった。そして先日また一人、「私は過去これだけ成果を出しているのに給料が安い。完全に足元見られている。給与アップ(月5万円)が受け入れられないなら退職する」と訴えてくるメンバーが現れた。

 

結果重視で評価、査定していくと会社の評価と自己認識の差が炙り出されるようだ。

多くの人は結果だけでなくプロセスも見てほしいと考えているので、その意識を変えていくことはなかなか大変。改革のためには致し方ないとはいえ、やはり戦力外になる人員が出ると現場では色々と支障が生じる。識学に賛同している私ではあるが、要所要所でこのような厳しさを目の当たりにすると、「成果出したかったらそこは御社の頑張りどころ。乗り越えてくださいね」という突きつけられている感じもして、一番重要なところで識学はどんなアプローチをしてくれろうのだろうかと、さらに興味が出てくる。

 

現時点で感じる識学に対する疑問はざっと以下の通りだ。

 

・完全結果の設定が難しい職種(よく言われるのがクリエイティブ職)での導入

・ルールをどこまで入れるのか、ルールを作れば作るほど結局優先順位がつけにくくなる問題

それこそ帰宅時は机上に何も置かないというルールを設けても、急な商談が入り机上が散らかったまま出かけ、そのまま直帰することになった場合もあるでしょう?そんな細かな事例をどこまでルールで管理できるのか、するべきなのか。。。

・同じものを販売しているが価格相場がエリアによって異なる場合、各支店の営業担当者に公平性ある完全結果の設定するには?

・給与テーブルで公平な査定と言っても、会社全体の業績が下がる中で優秀な成績を出した個人の査定をどこまで給与テーブル行うのか、業績連動で変えては行けないのか

 

いでれにせよ中間管理職の私は社長より現場で多くジレンマを体験し、不明確であるが故のやりづらさを感じながら仕事をしているので、明快なルール設定によるマネジメントの重要性は身に染みて感じる。そして会社全体がなるべく不明確なことがない状態になってほしいと願うが、経営者はルール設定=自由を奪うものと否定的に感じているようだし、社長というトップの主観的な評価がなぜ問題であるかもあまり考えていない。

 

さて、冒頭の「給与あげてくれなかったら会社辞めると言って来た社員」だが、部の責任者のである私としてはこの要求には応じない(最終判断は社長であるが)。理由は、評価は本人ではなく、あくまで会社が行うから。給与を上げるために「今後〇〇を達成するので上げてくれ」と相談を持ちかけるのは良いと思うが、実績に対する査定の不満はどんな評価であっても基本通らない。会社がこのような要求に一つ一つ向き合っていては、それこそ他のメンバーに不公平感を感じさせてしまう。もし本当に優秀な人材が低評価が原因で離職したなら、それは会社としても痛いのだから、会社は基本的には彼が言うように優秀な人材を足元を見て低評価することはない。

ただ今後、彼のように評価に不満があるから給与を上げてくれと言い出す社員を出さないためにも、明快な査定や給与テーブルは必要で私も尽力したいところ。しかし難しい・・・。

 

完全結果の査定項目設定なども識学はフォローしてくれるのだろうか?

 

 

自社内評価と市場価値

おはようございます。

今日は既に言いつくされた感もありますが自社内評価と市場価値の話です。

 

皆さんは今いる企業からの評価に満足していますか?

 

評価というのは絶対的なものではなく、所属する組織ごとにその方法が違います。そして評価の目的は従業員の成長を促し、組織力強化することです。組織力強化のためには時には合法的かつモラルにも配慮しながら戦力外通告や離脱を促すこともあります。ご自身の評価が仮に低いと感じられている方は、残念ながらあなたがその組織の強化において現時点ではあまり寄与できていないと判断されたということになります。

では、もしそのことにあなたが満足していないとしたら、満足できる評価を得るためにはどうすればよいでしょうか?それはどうしたら評価されるかを知りそのことに取り組むことです。評価基準を再認識するということです。

 ところが、評価基準には定量的な側面と定性的な側面があるので分かりづらいし、なかなかすべての人に平等というわけにはいきません。正直、たまたま社長に気に入られたといった運要素も入ります。また、評価基準がずっと同じとも限りません。企業には計画があり、その計画自体が様々な事情で変更されるからです。計画変更になると必要とされるな人材も変わるので評価も変わるということです。

 

従業員はそんな組織の都合で評価されてしまう悲しい立場ではあるのですが、一方社会の評価はどうでしょうか?

 

社会の評価(市場価値)は大きくは需要と供給で決まりますから、所属企業の評価が低いからといって、社会的評価が低いとは限りません。逆もしかりです。ですので市場価値を知るためにも転職サイトへの登録はじめ自社以外の評価基準を知ることは大切です。私の友人はビジネススクールに通ったり、最近私もプロボノワーカーに登録しました。

さて従業員は自社内の評価と社会的評価の2つに常に晒されて生きていますが、経営者は自社内では自分のことを評価する人は基本的にいないので、労働者としての市場価値についての意識が薄くなりがちです(従業員が社長の評価をあれこれしていても、それは基本的に陰口にしかなりません)。その結果、もったいないことに市場価値の高い人の評価が不適切なために離脱されることも多々あります。逆もしかりで従業員も自分の市場価値を所属企業だけに委ねてしまうと安い給料で買いたたかれるような状態になることもあります。特に従業員が少ない中小企業や長期経営を重視するため多様性を嫌うファミリー企業に多いような気がします。多様性が大事と言いながらもなかなか行動に移せてなかったりするんですね。※実際行動することはある程度投資が必要ですが、そこまでやる気はなかったりするんですね。

 

ただ、矛盾するようですがご自身の評価を上げたい方にとっては、このような中小企業やファミリー企業の転職も視野に入れるべきだと感じます。既に多様性にあふれた企業より、まだ多様化されていない会社の方がその企業内での希少性は高くなりますし、定性的な評価はそれまでのしがらみなく一からスタートできますので。私自身実際に採用活動を行っていて感じるのですが、どんなに練られた採用計画があったとしても、今のチームにいない能力や個性も持った人が現れたらついついその方の採用ありきで計画を作りたくもなるのです。

 

既に完成された組織にいると、どうしても活躍の場は減りますからね。

 

それでは。

一つに依存するのは怖い

 

私には趣味と言えるものがない。

強いて言うなら泳ぐことが好きなので夏には市民プールに行く回数がちょっと人より多いくらい。プールは持ち物も少なくて楽だし、終わった後のさっぱり感が最高だ。

 

最近流行りのソロキャンプ。自然の中で食事をすることも好きだが、山は蚊に刺されたり虫が多いし、調理器具や寝具など持ち物を準備することも面倒なので流石に一人でキャンプをやろうと思わない。グランピングで十分です。

 

話は逸れるが大学生の頃、テクノ音楽が好きだった。JPOPも嫌いではなかった。どちらも趣味と言えるほど傾倒してはいなかったが、どちらもそれなりに聞いていた。でも、当時はそんな自分が中途半端でカッコ悪いと感じ、表向きはテクノ好きを装っていた。

 

そして今、私は相変わらず深く傾倒している趣味はない。それでも歳を重ねる中で、キャンプやゲーム、ジョギングや筋トレ、食べ歩きや写真、ゴルフやサーフィンとつまみ食いするように経験し少しは魅力を理解できるものが増えた。小さな事だが、そうやって理解できることが増えたことは良かったなと感じている。

 

なぜなら自分にドンピシャ合った趣味に出会えるかは運であり、運悪くそれに出会えなくても、そこそこ楽しいと感じることが増えれば人生は充実するからだ。キャンプだって一人ではやろうと思わないが、誰かに誘われれば行くし、その時はそれなりに楽しいものだ。その延長に今はやろうと思わないソロキャンプをやる日が来るかもしれない。

 

同じことを仕事でも思う。最初からドンピシャ適性のある仕事に巡り会うほうが珍しい。自分はクリエイティブなことをしたいので営業なんか絶対やりたくない。とか、中小企業なんて考えられない、大企業以外就職しないとか。。あまり決めない方が良い(私は若かりし頃、そう思っている時もあった)。自分に合う仕事とか環境に出会えなかったとしても、与えられた仕事をやりたくないとか、楽しくないとか、モチベーションが上がらないなんていつまでも逃げ続けることはできないのだから。もちろん何か一つの分野で深く傾倒することはかっこいいし語れる内容にも深くなると思う。でも深く傾倒できるものに出会えなかったとしても、その時々でそれなりにやる気になれるものがいくつかあって、分散的にでもそれらに取り組んでいれば道は開ける。そんな気がする。

 

むしろ私は趣味も仕事も、「これがないとだめ!私の生きがいです!」みたいな状態には恐怖を感じる。だって、もし不幸にしてそれができない環境や状態になったら、その先の人生想像しただけで辛いですから。

 

 

組織に依存しない働き方にしても、何か一つに依存しないマインドから実現できるのかもしれませんね。

家族のマネジメント

夏休み皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

家庭をお持ちの方は家族と過ごす時間が増えて嬉しい反面、一人の時間が持てず本当は読書したり今後のキャリアを考えたりしたかったのに、それが叶わず悶々としているのではないでしょうか?

 

そんな家族のマネジメント、皆さんはどのようにされてますか?マネジメントなんて何もしてないよって方の方が多いと思いますが、そもそも家族って何のために組織化しているのでしょうね。企業なら社会に対して何かしらの価値を提供するために組織化されていて、その構成員である社長や従業員はそれぞれの役割を明確に定義しながら日々活動しています。一方、多くのご家庭がビジョンだのミッションだの設定したりせず、「なんとなく」で日々一緒に生活していのではないでしょうか?もちろんうちもそんな感じです。

 

で、私はこの「なんとなく一緒に生活している状態」が気持ち悪かったりするんですよね。たとえば夏休みの旅行を計画するときでも、そもそも私以外の家族は旅行に行きたいと思っているのか、行くならどんな過ごし方をしたいのか、行き先は?移動にかける時間は?予算は?と、奥様を中心にそれぞれのはっきりしない意向を汲み取りながらだんだん決まっていく感じなので計画決定までやたら時間がかかるし、決まった計画にはそもそもビジョンもなく、成り行きで決まった感が残って、スッキリしなかったりするんです。

 

せめて家族の組織構造(たとえば最高責任者は私とか)だけでも共通認識があるなら決めやすいのですが、たいてい家庭内に生じるさまざまな課題は「子供が最高意思決定者であるが責任は親」といった責任と権限が伴わないおかしな構造の中で解決を図ろうとするだけです。

 

私を含め、きっと世の多くの男性は家庭内のさまざまな問題について本当は配偶者や子供と中長期の目線で計画しロジカルに検討したいって思っていることと思います。そして女性の方はそんな男性を面倒に思っている気がします。そして子供は子供は訳もわからず「お母さんが良いって言ってたもん」と、その時々でうまく両親を使い分けながら日々自分の都合を押し通してきます笑。

 

家族は大事だし、子供も可愛いけど、それに反するように「早く夏休みが終わって仕事が始まらないかな」って言っているお父さんの気持ち。分かってくれますかね。。。